崖の上のリサ【ポニョ・ネタバレ有】 (Sep.24, 2008)
「崖の上のポニョ」、もう公開も一段落ついたから内容を踏まえた話、書いちゃってもいいかな?
ポニョを見て「これは子供にはステキなお伽話」という感想を持った「大人」、自分もそうですが結構多いんじゃないかと思います。いや決して感動しなかったわけではない。しかし、諸手あげて感動してる子供達に、どこか置いてきぼり喰らったような腑に落ちなさがある。
多分、それはラストシーンなんだと思います。
少女は、愛する王子様と結ばれました。めでたし、めでたし。そこで終わればお伽話です。でも、大人にはそのお伽話には描かれない先の生活が見えてしまう。
口づけで眠りから目覚めさせてくれたとは言え初対面の王子を、眠り姫は、白雪姫は、本当に愛する事が出来たのか? ましてや待っているのは故郷を離れた他国での新婚生活なのに。生まれは高貴とは言え下女の生活が長かったシンデレラは、王宮のしきたりにちゃんと順応することが出来たのかしら?
ポニョのラストシーンに腑に落ちなかった大人の目には、お伽話のお終い以降も続く宗介とポニョの思春期が透けて見えていたのだと思います。
5歳の幼心に誓い合った婚約は、果たしていつごろまで有効なのだろう。中学にあがった宗介少年がガールフレンドに人間の男の子として自然な恋心を抱いた時、ポニョはどう感じるのだろう? 妬くのだろうか? 自分は魚の身という現実を受け入れるのだろうか? 幼少の婚約を盾に取って、ガールフレンドもしくは宗介に逆恨みするのだろうか? もしくはポニョの恋心自体思春期まで続かない、その頃にはすでに友情に昇華しているのだろうか?
また、ポニョはちゃんと人間の少女としての生活に順応して行けるのだろか? 食べ物の違いがまず心配になる。ポニョは人間に出された食べ物を、ハムしかまともに食べてなかった気がする。次に健康。地上の温度・湿度に、病原菌に、魚の子はどのくらいの耐性があるのだろう。ポニョの父でさえ、地上に出るときは噴霧器持参だった。
そして生活リズムや行儀。魚時代の生活がイマイチ不明ですが、朝起きて身支度をして保育園に通い友達と遊ぶ。それだけ取ってみても、不愉快なら相手を攻撃し眠くなれば眠る、と本能のまま生きて来たポニョに取ってみたら、アルプスの山奥からロッテンマイヤーさんの元に連れてこられたハイジ並みの生活の激変ですよ。
おせっかいとは思いつつ、そんな心配を「めでたし、めでたし」以上何も語らないエンディングに、つい抱いてしまう。腑に落ちなさの正体は、そんなおせっかいな大人の頭由来のものなんじゃないだろうか。
だからこそ、私は強く思った。世界を救ったのは、海の統率者たるポニョの両親がポニョ自身を護ってくれと託した相手は、不確かな5歳の婚約者なんかじゃなかったはずだと。
そう、ポニョが新しい人生を共に生きる相手として選ばれたのは、宗介でもあるけど宗介だけじゃない。リサが、義理の母として共に生きてくれるという後ろ盾があったからこそ、彼等はポニョを託したに違いないのだと。
リサ。典型的な宮崎駿の描く肝っ玉かあさん。時にはパズーの親方のおカミさんだったり(もしくはドーラ婆ぁだったり)、時にはグーチョキ・パン屋のおソノさんだったりするけど、それが今回たまたまミセスにしとくには若くて美人過ぎただけであって、基本的に中身は同じだと思う。余所の子を、自分の子と分け隔てなく受け入れ愛することの出来る包容力ある女性。
5歳の少年が友達を受け入れる容易さで、初対面のポニョを居間に受け入れたリサ。5歳の息子のする海面を走って来る女の子の話に、海から来た遊び相手に目印を残す話に、否定しないで耳を傾けたリサ。そして、息子が魚の少女と婚約する場面を、当たり前のように見守ったリサ。
お伽話には、続きがある。5歳の幼いカップルがめでたし、めでたしで終わらせたその物語の続きを、責任もって後見して行くのはリサなんだ。
リサがいる限り、ポニョは人間の娘でいられる。生活習慣の違いも、リサが一緒ならきっとなんとかなる。数年後、宗介が本当の初恋を経験する時が訪れたとしても......やっぱりリサが側にいてくれれば、ポニョは人間の娘で居続ける事が出来るだろう。「宗介の所で幸せに暮らす」以上の人間の娘として自分の生きる道を、リサの娘として学ぶことが出来るだろう。
そう、リサがいるからこそ、ふたりの恋を「めでたし、めでたし」のお伽話で終わる事が出来たのだ。グランマンマーレに選ばれたのは、宗介でなく実はリサだったのではないだろうか......私は、そう信じています。
森三中に「接続された女」 (Aug.29, 2008)
しばらく、ネット活動の拠点をmixiに移していました。でもあそこも当初の「クローズドなコミュニティ」ではなくなって来て、あまり開けたネットと差異が見出せなくなってきた。眠っていたコチラももう少し、活用しようかなと思いました。
先日、グラドル3人が組んだ「私たち、歌ってませーん」の口パク・ポップスユニット「Peachy's」が、歌声担当の正体はなんと森三中!というニュースが流れた。
そのグラドル自体にも、かつてミリ・バニリがやっていたような歌声担当とビジュアル担当を分業させる様な売り方にも、さして興味は引かれなかったんだけど、「中の人が森三中」ってのには不覚にもヤラレタ!と思っちゃいましたよ。森三中ですよ森三中! これ、最初っから歌声担当のネタバレでウケ狙うの織り込み済みの企画だよね、確かに一本取られた。
で、ひとつ安心したのは。
歌声担当が、無名の真面目にボーカルを志すお嬢さん達ではなかったんだ、芸能人だったんだ。北京オリンピックの開会式の少女のように、美人ではない故に全うなデビューの機会を奪われた搾取されたボーカリストがそこにいたわけではなかったんだ、という安心感。
そして、同時に不安感。
ブスタレとして活躍してるブサイクをあえて歌声担当にキャスティングする、という悪趣味さ。結局、容姿のいい子をビジュアル担当に、才能あれど容姿に落第点下されたものは表に出すべきではないのだ、という悪意の分業を認める形になってること。
これ、最初にやり始めたのってジェームズ・ティプトリー・Jr?
「接続された女」。美人で可憐な人造人間のデルフィ嬢と、その操縦者に選ばれたホルモン異常で全身が奇怪に変形したP・バーク。この図式、まんま森三中とPeachy'sの面々じゃん。
デルフィ嬢を社交芸能界にデビューさせたのは、クライアントの意のままに印象操作・情報操作をするのが目的。その操縦者は、外見の醜さから決して表舞台に立つことが許されない。デルフィに惚れたイイトコのボンボンは、あくまでビジュアル担当のデルフィに恋いこがれ、恋人に自分自身を否定されたバークは、懸命に恋人に愛されるデルフィの肉体の中に生きようとする。
まあ、ね。バークがバークとしての人格と人権を認められてる森三中なら幸い、悲劇も起こらないだろう。でも北京オリンピックのバークは「デルフィの中の人」としての役目を奪われてしまったら、一生地下の遠隔操作室から表に出ることを許されないんだろうか。
ブサイクが外に出せない恥ずかしいもの、と心から公言出来る人って、でも少ないと思うよ。
しかし、美人の容姿とブサイクの才能を切り貼れば無敵人間が出来るな、という幻想を抱く人は、やっぱり多いってことなんだと思うよ。
#031 小栗旬 (May.30, 2008)
そりゃあ自分、もう恋愛市場から引退しかけたような歳ではあります。そのせいもあるのだけど、どうも最近の「イケメン」という価値観が、自分の理解出来ない所で形成されている気がする。そんな疎外感をここ何年も感じて来ました。イケメンと呼ばれる男子の多くが、どこが魅力なんだかよく理解出来ないんですよ、寂しいことに。
で、思ったんだけど「イケメン」って男前って意味じゃなくて、カテゴリーなんだよね。うがった見方を承知で書くと、前髪が長くて線が細くて物腰が柔らかくフェミニン。確かに、自分の考えるイイ男像とはずれがあるわ。で、小栗君。ビジュアルは確かにイケメン系だけど、スマートというよりは情熱的。外面的スタイリッシュさよりも、人物像に興味引かれる。イケメンカテゴリーで括れない所に魅力があるんだよね。
若い子よりも、オバサンに厚く支持されてると、あとから知りました。なるほど、その理由がわかった気がしましたorz